Chapter 10: 父が破った約束
黒田からの電話が切れた後、家の中には重い沈黙が残った。
父はスマホを握ったまま、しばらく動かなかった。
いつもの父ではなかった。
怒ることも。
命令することも。
言い訳することもなかった。
ただ、何かを覚悟した人間の顔をしていた。
「話してください」
私は言った。
父の肩がわずかに揺れた。
「美月……」
「もう隠さないで」
父はゆっくり椅子に座った。
そして、十年前の話を始めた。
「お前のお母さんが亡くなる前日、病院で黒田さんと三人で話をした」
私は黙って聞いた。
「由紀は、自分がもう長くないことを分かっていた」
父の声が震える。
「でも、最後までお前のことしか考えていなかった」
父はテーブルの上に置かれた母の手紙を見る。
「彼女は言った」
『美月には、自分の道を選ばせて』
「そして俺に約束させた」
父は目を閉じた。
「お前が何を選んでも、俺は邪魔をしないと」
私は拳を握った。
「でも、あなたは邪魔した」
父は頷いた。
「そうだ」
その素直な返事が、逆に苦しかった。
「なぜ?」
父はしばらく黙った。
「怖かった」
またその言葉。
私は目を逸らした。
「またそれ?」
父は苦しそうに続けた。
「お前が防衛大学校へ行くと知った時、由紀と同じ道へ進む気がした」
「母と同じ?」
「ああ」
父の声が低くなる。
「由紀は、人を守ることを選んだ。その結果、俺は彼女を失った」
私は息を止めた。
「だから、お前まで失うと思った」
父は続けた。
「推薦を取り消す連絡をした」
「……」
「でも、学校側から返事が来た」
父は苦笑した。
「『佐伯美月さんは、自分の意志で進む学生です』と言われた」
私は初めて聞く話だった。
「それでもあなたは止めようとした」
「ああ」
父は頷いた。
「何度も」
「でも私は行った」
「そうだ」
父は私を見る。
「お前は俺が思っていたより、ずっと強かった」
その言葉。
昔なら欲しかった。
何より欲しかった言葉。
でも今は、少し遅かった。
「お父さん」
「何だ」
「私が欲しかったのは、止めないことじゃない」
父は顔を上げた。
「応援してほしかった」
沈黙。
「危ないからやめろじゃなくて」
私は涙をこらえた。
「気をつけて行ってこいって言ってほしかった」
父は俯いた。
「……すまない」
初めて聞いた。
心からの謝罪だった。
その夜、私は眠れなかった。
部屋の机には、母の手紙。
隣には卒業証書。
そしてスマホには、学校から届いた通知。
翌週、私は国防関連の特別研修への参加候補者に選ばれていた。
本来なら喜ぶべきことだった。
でも、私はまだ過去から抜け出せていなかった。
翌朝。
父は珍しく朝食を作っていた。
味はひどかった。
卵は焦げていた。
味噌汁は薄かった。
でも、私は何も言わなかった。
「……まずいか?」
父が聞いた。
私は少し笑った。
「正直に言う?」
「言ってくれ」
「料理の才能はないと思う」
父は苦笑した。
「そうか」
その小さな会話が、昔ならありえなかった。
でも、完全に元通りになったわけではない。
許すことと、忘れることは違う。
朝食後。
黒田から連絡が来た。
「美月さん」
「はい」
「話さなければならないことがある」
声が重かった。
「君のお父さんが隠していた最後のことだ」
私は息を止めた。
「まだあるんですか」
黒田は静かに答えた。
「ある」
「何ですか」
少しの沈黙。
そして。
「君のお母さんの死に関係する事故についてだ」
私はスマホを握り締めた。
「事故?」
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黒田の声が震えた。
「君の母親は……単なる病気で亡くなったわけではない」