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Chapter 1: 大理石の上の屈辱

「お前みたいな分不相応な人間は、自分の立場を知るべきだ」

その言葉を吐いた男の手が、私の頬を打った瞬間、東京でも有数の高級ホテルのロビーから、すべての音が消えた。

シャンデリアの光が大理石の床に反射し、何百万円もする時計を身につけた宿泊客たちが、息を止めてこちらを見ていた。

私は西園寺美咲。都内の五つ星ホテル「グラン・セレス東京」でフロントスタッフとして働いている。

このホテルで働き始めて7年。

笑顔を絶やさず、どんな客にも丁寧に接すること。

それが私の仕事だった。

だから、どれだけ理不尽な要求をされても、感情を表に出したことは一度もなかった。

あの日の夕方までは。

午後6時過ぎ。

ロビーには海外からの宿泊客やビジネス客が行き交い、フロントにはチェックインを待つ列ができていた。

そんな中、入り口の自動ドアが大きく開いた。

最初に聞こえたのは、笑い声だった。

「やっぱり最高だな、このホテル」

酔った声。

振り向くと、ブランドスーツを着た若い男性が4人の友人を連れて歩いてきた。

その中心にいた男。

神谷蓮。

私は彼の名前を予約リストで見たことがあった。

神谷グループの御曹司。

父親は国内でも有名な投資家で、このホテルとも長年取引がある人物だった。

蓮はフロントカウンターに近づくと、車の鍵を大理石の上へ投げた。

「スイートルーム。今すぐ案内しろ」

鍵が乾いた音を立てた。

私はすぐに予約情報を確認した。

「お待たせいたしました。神谷様ですね」

「そうだ」

「スイートルームをご用意しております。ただ、一点だけ確認をお願いいたします。当ホテルの規定により、外部からのお酒のお持ち込みは禁止されております」

私は彼の友人が持っている開いたウイスキーのボトルを見た。

蓮の表情から笑顔が消えた。

「……何?」

「申し訳ございません。お預かりするか、館外でお飲みいただく必要がございます」

彼はゆっくり私に近づいた。

「俺が誰かわかって言ってる?」

「はい。神谷様でございます」

「じゃあ、俺の家がこのホテルにどれだけ金を使ってるかも知ってるよな?」

「承知しております。しかし、規定はすべてのお客様に同じように適用されます」

数秒の沈黙。

周囲の空気が変わった。

蓮は鼻で笑った。

「ただの受付のくせに」

彼はカウンター越しに顔を近づけた。

「偉そうに命令するなよ」

私は姿勢を崩さなかった。

「命令ではございません。ホテルの規則をご案内しているだけです」

その瞬間、彼の目が冷たくなった。

友人の一人が小さく笑った。

「蓮、こんな奴に怒るなよ」

「いや、面白いじゃん」

蓮は友人からウイスキーのボトルを奪った。

そしてエレベーターへ向かおうとした。

私は反射的にカウンターを出た。

「神谷様、お待ちください」

彼が振り返る。

「そちらを客室へお持ち込みいただくことはできません」

次の瞬間だった。

何が起きたのか、理解できなかった。

頬に熱い痛みが走った。

インカムが床に落ちた。

静寂。

誰も声を出さなかった。

神谷蓮が、私を見下ろしていた。

「身の程を知れよ」

私は震える手で頬に触れた。

その時、フロアマネージャーの小林が駆け寄ってきた。

「神谷様!」

彼は私ではなく、蓮を見た。

「どうか、お怒りをお鎮めください。こちらで穏便に対応いたします」

私は耳を疑った。

「小林さん……警備を」

しかし小林は目を逸らした。

「美咲」

「……はい」

「謝りなさい」

時間が止まったようだった。

「何に対してですか?」

小林は困った顔をした。

「神谷様を不快にさせたことだ」

蓮は笑った。

「そうだよ。自分の立場もわからない奴が、客に逆らったんだから」

私は彼を見た。

頬は痛かった。

でも、それ以上に胸の奥が冷たかった。

「謝りません」

蓮の笑顔が消えた。

「何?」

「私は間違ったことをしていません」

次の瞬間、彼は私の肩を押した。

体が後ろへ飛ぶ。

近くにあった荷物用カートへぶつかり、そのまま大理石の床へ倒れた。

痛みで息が止まる。

警備員が走ってくる。

しかし蓮は足元のカートを蹴った。

金属音が響いた。

「規則なんかで、お前みたいな奴が力を持った気になるなよ」

その瞬間。

ホテル正面の自動ドアが開いた。

警備員全員が、一斉に姿勢を正した。

黒いスーツ。

白髪。

落ち着いた歩き方。

その男性を見た瞬間、小林の顔から血の気が引いた。

「……西園寺会長」

私の父だった。

そして父は、床に倒れている私を見ると、静かに歩み寄った。

「美咲」

優しい声。

しかし次の瞬間。

私の赤く腫れた頬を見た父の目が変わった。

「誰が」

父は低い声で言った。

「誰が、私の娘に手を上げた?」

蓮の顔から、初めて余裕が消えた。

そして父の後ろにいた幹部が、小さな声で告げた。

「会長……あの方は神谷蓮様です。神谷家とは、現在このホテル買収の交渉中の……」

蓮は少し笑った。

「そうだよ。俺の親父が黙ってないぞ」

父は何も言わなかった。

ただ、上着の内ポケットから一冊の分厚い書類を取り出した。

そしてフロントカウンターへ置いた。

「安心しろ」

父は蓮を見た。

「お前の父親は、もう何も言えない」

蓮が眉をひそめた。

父は書類の一ページ目を指で叩いた。

「5分前、神谷家との買収契約を破棄した」

ロビーの空気が凍った。

「お前の一族は、私から何も買えない」

蓮の顔が青ざめた。

その時、警備主任がタブレットを持って前へ出た。

「会長」

彼は画面を見せた。

「ご説明の前に、監視カメラの映像をご確認ください」

父が画面を見る。

警備主任の声が響いた。

「神谷氏が暴力を振るう直前、彼はお嬢様にこう言っています」

再生ボタンが押された。

そして、ロビー中に蓮の声が流れた。

「お前みたいな底辺の人間が、俺に逆らえると思うな」

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父の表情が完全に変わった。

だが、映像はまだ終わっていなかった。

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