Chapter 1: 消えた手術費用
「お父さん、説明させて」
その言葉を聞いた瞬間、私は自分の人生で一番信じたかった人間を、もう信じられなくなった。
心臓手術まで、あと三日。
医師からは「延期はできません」と何度も言われていた。長年連れ添った妻を亡くしてから、私は一人でこの日を迎える覚悟をしていた。
妻と二人で少しずつ貯めた緊急用口座。
そこには、老後のためではなく、もし何かあった時に家族を守るための550万円以上が入っていた。
私はそれだけを頼りに、手術台へ向かうつもりだった。
だから、病院からの電話を受けた時も、最初は何かのシステムミスだと思った。
「〇〇様、申し訳ありません。手術費用のお支払いが確認できません」
看護師の声は申し訳なさそうだった。
「確認します。銀行側の問題かもしれません」
そう答えながら、私はスマートフォンを握った。
だが、銀行アプリを開いた瞬間、指が止まった。
残高。
3万円。
何度見ても変わらない。
「……嘘だろ」
妻の写真が飾られた棚の前で、私は立ち尽くした。
震える指で取引履歴を開く。
昨夜。
550万円。
一括送金。
送金先の名前を見た瞬間、胸の奥が冷たくなった。
里奈。
私の一人娘だった。
この口座にアクセスできる人間は、私以外に一人しかいない。
数年前、私が病気で倒れた時、里奈が「何かあった時のために管理を手伝う」と言ってくれた。
私は疑わなかった。
娘だったから。
妻が最後に残した言葉も、「里奈を頼んでね」だったから。
その約束が、こんな形で裏切られるなんて思わなかった。
20分後。
玄関の鍵が開く音がした。
「ただいま」
里奈の明るい声。
彼女は何も知らない顔でキッチンに入ってきた。
手には缶コーヒー。
いつも通りの日常を演じる姿に、私は逆に恐怖を感じた。
「里奈」
「ん?どうしたの?」
「私の手術代はどこへ行った?」
彼女の足が止まった。
缶コーヒーを持つ手がわずかに震える。
数秒間の沈黙。
それだけで十分だった。
「お父さん……」
「答えてくれ」
私の声も震えていた。
「550万円を送ったのは、お前だな」
里奈は目を伏せた。
「説明させて」
「どこにあるんだ?」
彼女はゆっくり缶をテーブルに置いた。
「翔太が逮捕されたの」
翔太。
里奈の婚約者。
私はその名前を聞いただけで、胃の奥が重くなった。
彼は何度も問題を起こしていた。
仕事先での金銭トラブル。
知人との揉め事。
そのたびに里奈は泣きながら私に助けを求めた。
私は何度も言った。
「彼と一緒にいる限り、お前は幸せになれない」
でも、里奈は聞かなかった。
「翔太は変わるから」
いつもそう言っていた。
「保釈金が必要だったの」
里奈が小さな声で言った。
私は耳を疑った。
「……何を言っている?」
「翔太が拘留されたままだと、会社をクビになる可能性があるの」
「だから?」
里奈は唇を噛んだ。
「だから、お金を使った」
「私の手術費用を?」
「……」
「私が死ぬかもしれない手術の金を?」
里奈は少し顔をしかめた。
「お父さん、大げさだよ」
その一言で、胸を刺されたような痛みが走った。
「大げさ?」
「だって、ちゃんと返すって言ってるじゃん」
「いつ?」
私は聞いた。
「いつ返すんだ?」
里奈は黙った。
その沈黙が答えだった。
私はゆっくり立ち上がった。
客間に置いてあった彼女のスーツケースを持ってきた。
「何してるの?」
里奈の声が震えた。
私は玄関の横にスーツケースを置いた。
「出て行きなさい」
彼女の目が大きく開く。
「……本気?」
「本気だ」
「お金のことで実の娘を追い出すの?」
私は首を横に振った。
「違う」
一歩、彼女に近づいた。
「私の命より、あの男を選んだからだ」
里奈の顔が歪んだ。
「昔から翔太のこと嫌いだったもんね!」
「嫌いだから言っているんじゃない」
「じゃあ何なの?」
私は玄関のドアを開けた。
「父親として、お前を止めたかっただけだ」
里奈は涙を流した。
でも、その涙を見ても、私の心は動かなかった。
その時だった。
庭に車が入ってくる音がした。
黒い車。
見覚えのある車だった。
里奈が窓の外を見る。
顔色が変わる。
車から翔太が降りた。
そして助手席から、一人の警察官が降りてきた。
警察官はまっすぐ玄関へ歩いてくる。
そして私を見るなり、こう言った。
「〇〇さんですね?」
私は頷いた。
警察官は手帳を開いた。
「昨日の保釈金の振込に使用された口座の所有者様で間違いありませんか?」
その瞬間、里奈の顔から血の気が消えた。
なぜ警察が来たのか。
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私はまだ知らなかった。
だが、翔太の保釈金には、私の知らない大きな秘密が隠されていた。