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Chapter 1: 汚れたエプロンの卒業式

「お父さん……お願いだから、今だけは何も言わないで」

その言葉を、私は一生忘れない。

娘の卒業祝いの日、私は庭に足を踏み入れた瞬間、祝福の場ではなく、誰かが娘の人生を踏みにじる現場に来てしまったのだと悟った。

白いテーブルクロスが風に揺れ、庭には親戚や妻の友人たちの笑い声が響いていた。色とりどりの花が飾られ、シャンパンのグラスが並び、誰が見ても華やかな卒業パーティーだった。

けれど、その中心にいるはずの娘、咲希は。

古びたエプロンを身につけ、空いた皿を集めて歩いていた。

私は一瞬、目を疑った。

「……咲希?」

私の声に気づいた彼女は、びくっと肩を震わせた。

「お父さん……」

その顔には、卒業を迎えた十八歳の少女が持つはずの輝きがなかった。

疲れた笑顔。 赤く腫れた目。 そして、誰にも見られないように隠している震える手。

「どうして……そんな格好をしているんだ?」

私が近づこうとすると、咲希は小さく首を振った。

「大丈夫だから」

その「大丈夫」が、私は何より苦しかった。

大丈夫な人間は、そんな目をしない。

私は庭の奥にいた妻、由香里へ向かった。

彼女は高級ワインを片手に、友人たちと楽しそうに話していた。

「由香里」

私が呼ぶと、彼女はゆっくり振り返った。

「なに?」

「なんで咲希が給仕をしてるんだ?」

私の声には怒りが混じっていた。

しかし由香里は眉ひとつ動かさなかった。

「大げさね。ただ手伝わせているだけでしょう」

「今日が誰の卒業祝いか分かってるのか?」

「もちろん分かってるわ」

彼女はワイングラスを眺めながら、冷たく言った。

「あの子、大学の奨学金を逃したのよ」

その瞬間、胸の奥が冷たくなった。

「何?」

「だからって、せっかく集まってくれた人たちの前で暗い雰囲気にするわけにはいかないでしょう?」

私は言葉を失った。

咲希は去年から、寝る時間を削って勉強していた。

図書館が閉まるまで机に向かい、雨の日も駅から走って帰ってきていた。

「奨学金を……逃した?」

「そうよ」

由香里はため息をついた。

「現実を教えてあげただけ」

「本人は何て言ってる?」

「何も」

その答えに違和感を覚えた。

咲希が、何も言わない?

そんなはずがない。

私は振り返った。

その瞬間だった。

ガシャン。

庭中に鋭い音が響いた。

咲希が持っていたトレイが床に落ち、グラスが粉々に割れていた。

全員の視線が彼女に集まった。

「……逃してなんかいない」

咲希の声は震えていた。

「え?」

由香里が初めて表情を変えた。

咲希は拳を握りしめた。

「私は奨学金を取った」

静まり返った庭で、その声だけが響いた。

「合格通知も来た。奨学金決定のメールも来た」

彼女の目から涙がこぼれた。

「なのに……」

咲希は震える指で母親を指差した。

「お母さんが、美咲に惨めな思いをさせたくないからって……私に辞退させたんじゃない!」

空気が凍った。

庭の隅で、妻の連れ子である美咲がうつむいた。

私はゆっくり彼女を見た。

美咲は何も言わなかった。

その沈黙が、答えのように感じられた。

「由香里……」

私の声は自分でも分かるほど低かった。

「今の話、本当なのか?」

しかし妻はすぐに反論した。

「違うわ。咲希が勝手に――」

その時。

家の中から、一人の男性が現れた。

黒いスーツ。 真剣な表情。 そして胸に抱えた黄色い分厚いフォルダー。

彼は庭にいる全員を見渡した。

そして、まっすぐ妻を見た。

「奥さん」

低く落ち着いた声だった。

「私は青葉大学の入試広報責任者です」

由香里の顔から血の気が引いた。

男性はフォルダーを開いた。

「義理の娘さんの署名を偽造して、奨学金辞退届を提出した件について」

庭の空気が完全に変わった。

「説明していただけますか?」

その瞬間、私は初めて知った。

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妻が隠していたものは、ただの嘘ではなかった。

娘の未来そのものだったのだ。

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