Chapter 1: 破られた思い出
「そのワンピースを着ている人が、私の母を裏切った人だなんて、あの日の私はまだ知らなかった。」
母が亡くなってから三年。
私は、あの淡いブルーのワンピースを一度も袖に通していなかった。
クローゼットの奥、柔らかな布袋の中にしまい、時々指先で触れるだけだった。
それはただの服ではなかった。
母が最後に私へ残してくれた、温かい記憶そのものだった。
「咲希、女の子にとって特別な服ってね、人生で一度しかない瞬間のためにあるのよ」
病室のベッドで、母は弱々しく笑った。
「だから、あなたが心から幸せだと思える日に着てね」
私は涙をこらえながら頷いた。
「じゃあ、私の結婚式の日に着る」
「その時は、お母さんも隣で見ていたいな」
母はそう言った。
でも、その約束は叶わなかった。
母は二週間後、静かに息を引き取った。
だから私は決めた。
このワンピースは、いつか私が愛する人と人生を歩み始める日に着る。
それだけが、母との約束を守る方法だと思っていた。
しかし、その日。
父の家のリビングで私が見た光景は、私の世界を壊した。
鏡の前で笑っていた結衣。
私の義理の妹。
そして彼女が着ていたもの。
「……嘘」
私の声が震えた。
結衣は鏡越しに私を見て、ゆっくり振り返った。
「咲希さん、帰ってきたんだ」
彼女は嬉しそうに笑った。
でも、その笑顔の奥にあるものを私は感じ取った。
「その服……どこから出したの?」
結衣は肩をすくめた。
「クローゼット」
私の足が止まった。
「私の部屋に入ったの?」
その瞬間、ソファに座ってワインを飲んでいた継母、美智子がため息をついた。
「咲希、そんな大声出さないで」
私は美智子を見る。
「答えて。結衣を私の部屋に入れたの?」
美智子は面倒そうにグラスを置いた。
「結衣ちゃんは来週、婚約者との食事会があるの。相手のご家族も来る大切な日なのよ」
「だから?」
「だから、ふさわしい服が必要だったの」
私は信じられなかった。
「それが理由で、勝手に母のワンピースを出したの?」
結衣は自分の姿を眺めながら笑った。
「そんなに怒ること?」
「怒ることじゃない?」
私の声が震える。
「それは母さんの最後の形見なの」
結衣は首を傾げた。
「でも、着てないじゃん」
その一言で、胸の奥が刺されたように痛んだ。
「着てないから何?」
「服って着るためにあるんでしょ?」
結衣は鏡に映った自分を見ながら続けた。
「それに、正直言って……私の方が似合ってると思う」
空気が凍った。
私はゆっくり彼女へ近づいた。
「脱いで」
結衣の笑顔が消えた。
「え?」
「お願いだから、脱いで」
美智子がすぐに口を挟んだ。
「咲希、あなた本当に子供ね」
私は振り返った。
「子供?」
「たった一晩貸すだけでしょう?」
「これは服じゃない」
私は言った。
「母が私に残したものよ」
そこへ、騒ぎを聞いた父が入ってきた。
「何の騒ぎだ?」
私は父を見た。
少なくとも父だけは分かってくれると思った。
「お父さん、結衣が母さんのワンピースを勝手に着てる」
父は一瞬、服を見た。
そして、目を逸らした。
「咲希……」
嫌な予感がした。
「一晩くらい、譲ってやりなさい」
時間が止まったようだった。
「……何?」
「結衣の大事な日なんだ」
「お父さん、覚えてる?」
私は震える声で聞いた。
「母さんがこれを私に渡した日のこと」
父の表情が固まる。
「咲希」
「覚えてるよね?」
しかし父は何も言わなかった。
美智子が腕を組む。
「あなたには他にも服があるでしょう?」
そして結衣が小さく笑った。
「私が着た方が、きっとお母さんも喜ぶと思うけど」
その瞬間。
私の中で何かが切れた。
私は結衣の腕に手を伸ばした。
「脱いで」
結衣が慌てて後ろへ下がる。
「触らないで!」
彼女が私の手を振り払った。
次の瞬間。
ビリッ――。
大きな音がリビングに響いた。
全員が動きを止めた。
ワンピースの腰部分の縫い目が、大きく裂けていた。
「いや……!」
結衣が悲鳴を上げる。
でも私は服の破れではなく、その奥を見ていた。
裂けた裏地から、小さな封筒が滑り落ちた。
床に落ちた封筒。
そこには、見覚えのある文字。
母の筆跡。
そして名前。
「咲希へ」
父の顔から血の気が引いた。
美智子も、一瞬だけ表情を失った。
私は震える手で封筒を拾った。
裏側には、母の文字が続いていた。
「咲希。もしあなたがこれを見つけたなら……」
私は息を止めた。
「誰かが、私の最後の願いを無視したということね」
私はゆっくり父を見る。
父は私の視線から逃げた。
その時だった。
結衣が破れた裏地へ手を伸ばした。
「まだ何か入ってる」
彼女が取り出した二つ目の封筒。
そこに書かれていた名前を見た瞬間。
美智子の顔色が変わった。
「それを渡しなさい」
初めて聞くほど鋭い声だった。
私は封筒を奪われる前に、表面を見た。
そこには母の字で、たった一言。
「美智子さんへ」
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そして、その下に続く最初の文章。
「あなたが私に何をしたのか、私は全部知っています」