Chapter 1: 消えたカメラの緑の光
「先生が防犯カメラを切った瞬間、私は確信した。——蓮くんは、誰にも守られていないと思われている」
あの日の東京郊外の私立小学校の教室は、異様なほど静かだった。
窓の外では秋の風が木の葉を揺らしていたのに、教室の中には音がなかった。鉛筆が転がる音も、椅子が擦れる音も、誰かの咳払いさえも消えていた。
5年2組の担任、坂本先生が教卓の引き出しを乱暴に閉めたからだ。
「大切なものがなくなっています」
その声は低く、怒りを隠そうとしているようで、逆に怖かった。
私は最前列の席に座りながら、先生の表情を見ていた。
坂本先生はゆっくりと教室を見渡した。
そして、まっすぐ蓮くんを見た。
蓮くんはクラスで一番静かな男の子だった。
いつも背筋を丸め、誰かと目が合うとすぐに視線を落とす。けれど、算数の時間だけは別人だった。難しい問題を誰よりも早く解き、先生が黒板に書く前に答えを出してしまうこともあった。
彼は特待生として、この学校に通っていた。
でも、そのことが一部の子どもたちの嫉妬を生んでいた。
「どうせ特別扱いされてるんだろ」
以前、誰かがそう言っているのを聞いたことがある。
蓮くんは笑っていた。
でも、その笑顔が本物じゃないことを私は知っていた。
「蓮」
坂本先生が名前を呼んだ。
蓮くんの肩が小さく跳ねた。
「前に来なさい」
教室中の視線が彼に集まる。
蓮くんは椅子をゆっくり引いた。
ギギッという音が、やけに大きく響いた。
彼は立ち上がり、震える足で教卓へ向かった。
「僕は……何も取っていません」
途中で、蓮くんは小さな声で言った。
坂本先生の口元がわずかに歪んだ。
「まだ何も聞いていないのに、どうして言い訳するの?」
「違います。本当に……」
「黙りなさい」
その瞬間だった。
坂本先生は教室の壁へ歩いていった。
そこには防犯カメラの操作スイッチがあった。
私は息を止めた。
坂本先生は周りを確認するように一瞬だけ見回した。
そして、指を伸ばした。
カチッ。
小さな緑色のランプが消えた。
何人かの生徒が顔を見合わせた。
でも誰も声を出さなかった。
先生が怖かったからだ。
私の胸の奥が冷たくなった。
「気をつけをして、黒板の前に立ちなさい」
坂本先生は命令した。
蓮くんは動かなかった。
「先生……本当に僕じゃありません」
「嘘をつく子は、みんなそう言うのよ」
「でも……」
「聞こえなかった?」
蓮くんはゆっくり黒板の前へ移動した。
彼の目には涙が溜まっていた。
私は机の下で手を握りしめた。
何か言わなければいけない。
そう思った。
でも、声が出なかった。
坂本先生は教卓から木製の定規を取り出した。
それはいつも授業で使っているものだった。
けれど、その日は違って見えた。
「この学校に通えているだけでも感謝しなさい」
先生は冷たく言った。
蓮くんの顔から血の気が引いた。
「特待生の枠はね、本当に入る価値のある子に与えられるべきだったのよ」
その言葉が教室に落ちた。
誰も動かなかった。
誰も助けなかった。
そして坂本先生が定規を振り上げた。
私は反射的に立ち上がりそうになった。
次の瞬間。
バシッ。
乾いた音が響いた。
蓮くんが小さく悲鳴を上げた。
「やめてください……! 本当に僕じゃありません!」
坂本先生は表情を変えなかった。
「まだ分からないの?」
彼女はもう一度、定規を握り直した。
その時、先生が一瞬だけ背を向けた。
私は見た。
防犯カメラのスイッチまでの距離。
私の席からなら、手を伸ばせば届く。
心臓が激しく鳴った。
怖かった。
でも、蓮くんの泣き声を聞いた瞬間、体が勝手に動いた。
私は机の横から手を滑らせ、本棚の裏にあるスイッチへ指を伸ばした。
パチッ。
緑色のランプが戻った。
坂本先生は気づかなかった。
しかし、職員室では状況が変わっていた。
校長室のパソコン画面に、突然教室の映像が映し出された。
樋口校長は画面を見た瞬間、椅子から立ち上がった。
そこに映っていたのは、泣きながら許しを求める蓮くん。
そして、定規を持つ坂本先生だった。
「……何をしているんだ」
校長の声が震えた。
その瞬間、教室では再び定規が振り上げられた。
私は画面ではなく、目の前の現実を見ていた。
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そして、次の一撃が来る直前。
廊下から、誰かが走る音が聞こえた。