Chapter 4: 偽りの手紙と母の秘密
「そのメールは、私が書いたものじゃありません」
咲希の声は震えていた。
庭に集まった人々は、誰も口を開けなかった。
数分前まで、ここは娘の卒業を祝う場所だった。
けれど今、白いテーブルクロスの上には、壊れたグラスの破片と、家族の壊れた信頼だけが残っていた。
青葉大学の職員である女性は、静かに紙を持ったまま立っていた。
「咲希さん、確認させてください」
彼女は優しい声で言った。
「このメールアドレスは、あなたが普段使っているものですか?」
咲希は画面を見る。
そして首を横に振った。
「違います」
「でも、大学の記録ではあなたの名前で登録されています」
私は眉をひそめた。
「どういうことですか?」
女性は私たちを見る。
「大学への連絡には本人確認が必要です。しかし、このメールは通常の認証手続きを通らず、添付された書類と一緒に提出されていました」
黒田さんが補足した。
「つまり、誰かが咲希さんの情報を使って、本人になりすました可能性があります」
私は妻を見た。
由香里は視線を逸らしていた。
それだけで十分だった。
「由香里」
私は低い声で呼んだ。
「説明してくれ」
「……」
「今すぐ」
妻は唇を噛んだ。
「あなたまで私を疑うの?」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。
何年も一緒に暮らしてきた人間が、娘の未来を奪ったかもしれない状況で、最初に出てくる言葉がそれなのか。
「疑わせているのは誰だ?」
私は言った。
「俺じゃない」
由香里の顔が歪んだ。
「私は家族を守ろうとしただけ」
「家族?」
私は笑いそうになった。
「咲希の努力を消して、それを家族と言うのか?」
その時、美咲が突然立ち上がった。
「お母さん」
由香里が振り返る。
「もうやめて」
その声は泣いていた。
「私のためだったって言わないで」
「美咲?」
「私、そんなこと望んでなかった」
美咲は拳を握った。
「咲希が大学に行けなくなって、私が幸せになるわけじゃない」
由香里は信じられないものを見るような目を向けた。
「あなたまで私を責めるの?」
「責めてるんじゃない」
美咲は涙を流した。
「間違ってたって言ってるの」
沈黙が落ちた。
その時、黒田さんのスマートフォンが鳴った。
彼は画面を見ると、少し表情を変えた。
「確認が取れました」
「何がですか?」
私が聞くと、黒田さんは答えた。
「このメールを作成した端末情報です」
彼は画面を見せた。
「送信元は、ご自宅のパソコンです」
私の心臓が大きく跳ねた。
家のパソコン。
それを使える人間は限られている。
由香里はゆっくり顔を上げた。
「待って」
彼女は慌てた。
「家族なら誰でも使えるでしょう?」
「そうですね」
黒田さんは冷静だった。
「ですが、送信された時間の記録があります」
彼は時計を見る。
「午前二時十三分」
私は息を止めた。
その時間。
私は覚えていた。
咲希が眠れずにリビングで勉強していた夜。
そして由香里が「少し話がある」と私を呼び出した夜。
「その時間、あなたはどこにいた?」
私は妻に尋ねた。
由香里は答えなかった。
代わりに、美咲が小さく呟いた。
「……お母さん、その夜ずっと起きてた」
全員が美咲を見る。
「美咲」
由香里の声が鋭くなる。
「余計なこと言わないで」
その一言で、すべてが繋がった。
私は拳を握った。
「咲希が努力している間に」
声が震えた。
「お前は、娘の人生を変える書類を作っていたのか」
由香里の目から涙が落ちた。
しかし、その涙が謝罪なのか、追い詰められた悔しさなのか、もう私には分からなかった。
「だって……」
彼女は呟いた。
「美咲には、この大学に行くチャンスがなかった」
「だから?」
「だから咲希が譲ればいいと思った」
その言葉で、咲希の表情が消えた。
「……譲ればいい?」
彼女は小さく笑った。
「私の十八年間を?」
誰も答えられなかった。
しかし、その直後。
黒田さんが最後の書類を取り出した。
「まだ確認しなければならないことがあります」
彼は妻を見る。
「辞退届だけではありません」
「他にもあるんですか?」
私は聞いた。
黒田さんは頷いた。
「はい」
そして、静かに続けた。
「奨学金の辞退後、別の人物から大学へ連絡がありました」
「誰ですか?」
彼は紙を見る。
「咲希さんの父親を名乗る人物です」
私は眉をひそめた。
「俺は電話していない」
黒田さんはゆっくり言った。
「その人物は、こう伝えています」
彼は一枚の記録を差し出した。
「『娘には進学する意思がありません。家庭の事情です』と」
私の手が震えた。
父親を名乗った誰か。
そして娘の夢を否定した誰か。
私は妻を見た。
「誰が……俺の名前を使った?」
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由香里は黙っていた。
だが、その沈黙の奥に、まだ隠された秘密があることを私は感じていた。