Chapter 1: 選ばなかった母
「三人の息子のうち、一人だけ選びなさい」
東京家庭裁判所の小さな調停室で、夫の正樹はそう言って笑った。
まるで私の人生を壊すことが、自分に与えられた最後の娯楽であるかのような薄笑いだった。
私は22年間、この男の隣で生きてきた。
雨の日も、病気の日も、会社の経営が苦しかった時期も、家族を守るために眠る時間を削って働いた。
それなのに、正樹にとって私との結婚生活は、ただの「成功した取引」だったらしい。
彼は高級な革靴を組み、椅子の背にもたれながら私を見た。
「由美、聞こえただろ?」
正樹はわざと調停室全体に響く声で言った。
「息子たちは俺についてくる。だから、お前には最後の選択肢を与えてやる。一人だけ選べ」
部屋の空気が凍った。
調停員が手元の書類から顔を上げる。
「正樹さん、そのような言い方は……」
しかし正樹は止まらなかった。
「俺は現実的な話をしているだけです。子供にも生活がありますからね。世田谷の家、車、教育環境。誰が子供たちにそれを与えられると思います?」
彼の後ろには三人の息子が座っていた。
21歳の拓海。
19歳の健太。
17歳の翔太。
そして私の隣には、14歳の娘、咲希がいた。
私は横目で息子たちを見た。
拓海は腕を組み、父親と同じような笑みを浮かべていた。
健太はスマホを確認しながら、小さく笑っている。
翔太は私と目が合った瞬間、視線を逸らした。
胸の奥が痛んだ。
でも、涙は出なかった。
なぜなら私は、もう何ヶ月も前から知っていたから。
この瞬間が来ることを。
正樹は離婚を切り出された日から、息子たちに言い続けていた。
「母さんは家族を壊そうとしている」
「俺がいなければ、お前たちは何も持てない」
「金がある方についてくるのが賢い選択だ」
そして息子たちは、その言葉を信じた。
いや、正確には、信じたいものだけを信じた。
正樹の弁護士が書類をテーブルの上に滑らせた。
「奥様、こちらが親権についての提案です」
私はその紙を見た。
そこには、息子三人の親権を正樹が持つこと、娘の咲希については別途協議すると書かれていた。
つまり、彼は咲希まで「交渉材料」にしていた。
正樹が私の耳元に近づいた。
「自由になりたいんだろう?」
低い声だった。
「離婚したいなら、代償くらい払え」
私は黙って彼を見た。
「息子を一人選べ。残り二人は俺が育てる。咲希は……まあ、お前が好きにすればいい」
その瞬間だった。
拓海が吹き出した。
「母さん、迷ってるの?」
健太が肩を揺らした。
「三人全員欲しいなんて無理だよ。現実見た方がいいって」
翔太も小さく笑った。
「父さんの方が安心だし」
その言葉を聞いた時、胸の奥で何かが静かに切れた。
私は三人を責めなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、隣にいる咲希の手を握った。
小さな手だった。
震えていた。
「お母さん……」
咲希が小声で言った。
「大丈夫」
私は彼女に微笑んだ。
そして正樹に向き直った。
「一人もいりません」
数秒、誰も動かなかった。
正樹が瞬きをした。
「……何?」
「私は、一人も選ばないと言ったの」
次の瞬間。
息子たちが笑った。
大きな声で。
まるで私が惨めな負け犬になったかのように。
正樹も笑った。
「聞いたか? 自分の子供を捨てる母親だ」
しかし私は、静かに首を振った。
「違うわ」
私は調停員と裁判官に向かって言った。
「私は子供を捨てるんじゃありません」
「彼らはもう、自分で選択したんです」
笑い声が少しずつ消えた。
そして私はバッグから一枚の書類を取り出した。
「娘、咲希の親権を請求します」
正樹の表情はまだ余裕だった。
だが、次の言葉を聞いた瞬間、その笑みは消えた。
「そして、昨日提出した資産凍結申立てについて、正式な確認をお願いします」
正樹の弁護士が顔を上げた。
「資産……凍結?」
私は頷いた。
「はい」
「夫が隠していた共有財産についてです」
その瞬間、正樹の指が止まった。
彼だけが気づいた。
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私が半年間、家を奪おうとしていたわけではないことに。
私は彼の秘密を探していたのだ。