Chapter 2: 消えた二億五千万円
半年前。
私はまだ、正樹を信じていた。
離婚を考えるまで、私は夫がただ疲れているだけだと思っていた。
会社の経営。
家庭の責任。
年齢による不安。
全部、彼を苦しめているのだと思っていた。
でも、ある夜。
私は会社の経理資料を整理している時、一つの違和感に気づいた。
「……この送金、何?」
深夜のオフィス。
パソコンの光だけが部屋を照らしていた。
共同経営している建設会社から、不自然な金額が何度も外部へ流れていた。
一回ではない。
何ヶ月も続いていた。
私は翌日、公認会計士の田中さんに相談した。
田中さんは資料を確認すると、眼鏡を外した。
「由美さん」
「これは偶然ではありません」
「誰かが意図的に資産を移しています」
私は息を止めた。
「誰かって……」
田中さんは静かに答えた。
「ご主人です」
その日から、私の見ていた世界は変わった。
正樹は会社が苦しいと言いながら、高級車を買った。
家族旅行を減らしながら、ゴルフクラブの会員権を維持した。
そして裏では、約2億5千万円を別の場所へ移していた。
送り先は三つの会社だった。
一つは拓海名義。
一つは健太名義。
そしてもう一つは、翔太のための信託口座。
私は資料を見た時、金額よりも別の部分に傷ついた。
息子たちが関わっていたことだった。
田中さんが言った。
「拓海さんは書類に署名しています」
「健太さんは口座開設に協力しています」
「翔太さんについては……」
私は唇を噛んだ。
「知っていたんですね」
田中さんは答えなかった。
その沈黙が答えだった。
数週間前。
私は偶然、咲希が泣いているところを見つけた。
「どうしたの?」
そう聞くと、彼女はしばらく黙っていた。
そして震える声で言った。
「お兄ちゃんたち、お父さんがすごいことしてるって話してた」
「何の話?」
咲希は涙を拭った。
「お母さんには一円も渡さないって……」
その言葉を聞いた瞬間、私はすべて理解した。
正樹は息子たちを味方につけたのではない。
彼らを利用したのだ。
でも、息子たち自身もそれを選んだ。
だから今日、私は彼らを選ばなかった。
調停室に戻る。
裁判官が資料を確認していた。
「この三つの会社について説明してください」
正樹の顔から血の気が引いていた。
「これは……合法的な資産管理です」
私は黙って彼を見た。
正樹は私を睨んだ。
「由美、お前……」
初めてだった。
彼が私を恐れている顔を見たのは。
「俺を裏切ったのか?」
私は静かに答えた。
「裏切ったのは、あなたでしょう」
正樹の弁護士が慌てて口を挟む。
「裁判官、この件は離婚条件とは別問題で……」
しかし裁判官は首を振った。
「共有財産に関わる重大な問題です」
室内が静まり返る。
その時、私は後ろにいる息子たちを見た。
さっきまで笑っていた三人。
しかし今は違った。
拓海は書類を見つめていた。
健太は顔を青くしていた。
翔太は膝の上で手を震わせていた。
正樹が小さく呟いた。
「お前たち、何とか言え」
しかし三人は答えなかった。
その沈黙が、すべてを語っていた。
そして次の瞬間。
裁判官が一枚の書類を手に取った。
「正樹さん」
「この送金記録の中に、あなたが説明していない名前があります」
正樹の顔が固まった。
「この人物は……誰ですか?」
私はその名前を見た瞬間、背筋が凍った。
May you like
そこに書かれていたのは、家族の誰でもない。
知らない女性の名前だった。