Chapter 8: 母が恐れたもの
私は書類を握ったまま動けなかった。
そこに書かれていた名前。
それは、母の名前だけではなかった。
もう一人。
父の名前。
「お父さん……これは何?」
父は深く息を吐いた。
「説明する」
母が遮った。
「必要ない」
「ある」
父の声は初めて強かった。
「もう美咲に嘘をつくのはやめろ」
母は怒鳴った。
「あなたが何を言えるの?」
その声には、長年溜め込んだ怒りがあった。
「家を出た人間が」
父は黙った。
その瞬間、私は気づいた。
二人の間には、私が知らない大きな過去がある。
「二人とも」
私は言った。
「私の前で話して」
母も父も黙った。
私は涙を拭った。
「私はずっと、何も知らなかった」
「お父さんは家族を捨てたって聞いた」
「お母さんは私のために全部してるって言った」
「でも、今は何が本当なのか分からない」
父は目を伏せた。
「お父さんは、家を出た」
その言葉に胸が痛んだ。
「でも、理由があった」
父は続けた。
「お母さんは、美咲が家を離れることを怖がっていた」
母は何も言わなかった。
「君が優秀になるほど、遠くへ行ってしまうと思っていた」
私は息を止めた。
父は続けた。
「だから、小さい頃から君に『家族を守るのはあなたの役目』と思わせていた」
母の顔が変わった。
「違う」
でも、その声には力がなかった。
父は首を振る。
「美咲が高校を選ぶ時もそうだった」
私は思い出した。
本当は遠くの進学校を受けたかった。
でも母は言った。
「家から通える学校にしなさい」
「弟たちにはあなたが必要」
あの時も。
私は家族を理由に夢を諦めた。
「大学も同じだった」
父が言う。
「奨学金の通知を見た時、お母さんは喜んだ」
私は驚いた。
「喜んだ?」
「最初はな」
父は苦しそうに笑った。
「でも、その後で言ったんだ」
「美咲が本当に家を出てしまう」
私は唇を噛んだ。
母は私の成功を喜べなかった。
私が自由になることを恐れていたから。
その時、母が突然言った。
「あなたには分からない」
全員が母を見る。
母の目には涙があった。
「私がどれだけ苦労したか」
静かな声だった。
「若い時、誰も助けてくれなかった」
「だから、家族だけは失いたくなかった」
私は聞いた。
「だから私を閉じ込めたの?」
母は答えなかった。
その沈黙が痛かった。
「私はあなたのために頑張った」
母は言った。
「ご飯を作った。育てた。全部あなたのため」
私は首を振った。
「でも、お母さん」
涙が落ちる。
「私の夢を聞いてくれたこと、一度もないよね」
母の顔が歪んだ。
その瞬間、父が机の上に別の封筒を置いた。
「これも見てほしい」
私は開けた。
中には、大学からの通知。
『奨学金再審査対象者』
そして、もう一枚。
『不正な辞退手続きについての調査開始』
私は驚いた。
「調査?」
父は頷いた。
「大学側は、君が自分の意思で辞退していない可能性に気づいた」
母が小さく呟いた。
「そんな……」
私は母を見た。
初めて。
母が恐怖を感じているのが分かった。
でも、その理由は私ではなかった。
自分がしてきたことが明らかになること。
その夜。
私は父の車で少し離れた場所まで送ってもらった。
頭の中は混乱していた。
父は別れ際に言った。
「美咲」
「何?」
「実は、まだ話していないことがある」
私は振り返った。
父は苦しそうな顔をしていた。
「奨学金の件で、お母さんがしたことを証明するものを持っている」
私は息を止めた。
「何?」
父は小さなUSBメモリを取り出した。
「でも、これを見る前に覚悟してほしい」
「何が入ってるの?」
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父は静かに答えた。
「お母さんが、君の未来を止めるために計画していた全部の記録だ」