Chapter 1: 冷たい皿の秘密
「パパがいない二日間だけ、私は家族じゃなくなるの」
12歳の莉子が、後になって私にそう言った時、私は自分の耳を疑った。
私はその言葉を聞くまで、我が家には少なくとも愛情だけは残っていると思っていた。血のつながりだけが家族ではない。そう信じて、美智子と結婚した日から、私は彼女の二人の子供も自分の子供のように大切にしてきた。
だからこそ、私が出張に行っている間、家の中で何が起きていたのかを知った瞬間、胸の奥が凍った。
その夜、食卓には幸せそうな光景が広がっていた。
オーブンから出したばかりのローストチキン。香ばしい皮の匂い。焼きたてのパン。バターで炒めた野菜。
普通なら、家族が笑い合う時間だった。
美智子は白い皿に大きなチキンを取り分け、二人の子供の前に置いた。
「今日は特別よ。あなたたちが好きな部分を選んでいいからね」
美智子の息子の健太が笑った。
「やった。胸肉の大きいところもらう」
「もちろんよ」
美智子は優しく笑った。
その笑顔を見て、誰も気づかなかった。
食卓の端に座っていた莉子が、静かに手を握りしめていたことに。
「莉子も食べなさい」
美智子が言った。
莉子は少し安心したように顔を上げた。
「うん。ありがとう」
しかし、美智子は次の瞬間、別の方向を指差した。
「あなたは台所で食べて」
莉子の表情が止まった。
「……え?」
「聞こえなかった?」
美智子はため息をついた。
「台所で食べなさいって言ったの」
莉子はテーブルを見た。
そこには温かい料理を囲む家族がいた。
「でも……私も一緒に食べたい」
美智子は眉をひそめた。
「何で?」
「だって……私も家族だから」
その言葉を聞いた瞬間、美智子の顔から笑顔が消えた。
「わがまま言わないの」
「わがままじゃないよ」
莉子の声は小さかった。
「みんなと同じものが食べたいだけ」
美智子は椅子から立ち上がった。
「私が何回言えば分かるの?あなたは本当に面倒な子ね」
8歳の葵は、向かい側からその光景を見ていた。
何も言えなかった。
姉の莉子が台所へ歩いていく姿を見ながら、葵はテーブルの下でそっとスマートフォンの画面を確認した。
録画中。
赤い小さなマークが点滅していた。
台所のシンク横には、小さな皿が置かれていた。
そこにあったのは、冷たくなったチキンの切れ端。
硬くなった昨日のパン。
少しだけ残った野菜。
莉子は皿を見つめた。
「……これだけ?」
後ろから美智子の声がした。
「何?」
「みんなは……温かいチキンを食べてる」
美智子は腕を組んだ。
「だから?」
莉子は唇を噛んだ。
「私も同じものを食べてもいい?」
美智子は鼻で笑った。
「食べられるものがあるだけ感謝しなさい」
「でも私、何も悪いことしてない」
「あなたはいつもそう」
美智子は冷たく言った。
「自分だけ可哀想みたいな顔をする」
莉子の目に涙が浮かんだ。
「そんなこと思ってない」
「じゃあ黙って食べなさい」
その時、食堂から健太の声が聞こえた。
「お母さん、このチキンもっと食べていい?」
「もちろん」
美智子はすぐに優しい声になった。
「あなたたちは遠慮しなくていいのよ」
莉子はその声を聞いて、ゆっくり椅子に座った。
一口、冷たい肉を口に入れた。
その瞬間、美智子が台所へ来た。
そして、わざと大皿を持ち上げた。
「この料理はうちの子たちのものだから」
莉子の手が止まった。
「……私もお父さんの子だよ」
美智子の目が細くなった。
「私の子じゃないわ」
その言葉だけは、葵のスマホに完全に残っていた。
テーブルの下で、葵の小さな手が震えた。
でも録画を止めなかった。
その夜、莉子は自分の部屋で泣かなかった。
泣く代わりに、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
そこには小さな字で書かれていた。
「パパに言ったら、もっと悪くなるかもしれない」
そして、その下にもう一行。
「でも、葵が見てくれている」
二日後。
私は予定より早く出張から帰宅した。
玄関のドアを開けた瞬間、莉子の姿が見えた。
「ただいま」
いつものように腕を広げた。
しかし莉子は私を見ると、少しだけ震えて、何も言わず二階へ走っていった。
私は呆然とした。
「莉子?」
返事はなかった。
背後から美智子が笑顔で近づいてきた。
「あなた、おかえりなさい」
「莉子、どうしたんだ?」
美智子は肩をすくめた。
「最近、あの子ちょっと反抗的なのよ」
「反抗的?」
「何を言っても不満ばかり。思春期って大変ね」
私はその言葉を聞きながら、胸の奥に小さな違和感を感じた。
その夜。
家が静かになった頃、寝室のドアがゆっくり開いた。
葵だった。
「パパ」
彼女の声は震えていた。
「見てほしいものがあるの」
葵はポケットからスマートフォンを取り出した。
そして鍵を閉めた。
「ママには絶対聞こえないようにして」
私は画面を見た。
最初の動画。
次の動画。
その次の動画。
映像の中で、莉子は台所にいた。
冷たい皿を前に座っていた。
そして美智子の声が響いた。
「この料理はうちの子たちのものよ」
私の手が震え始めた。
でも、葵はまだスマホを離さなかった。
「パパ……まだある」
彼女が次の動画を開いた瞬間、私は息を止めた。
May you like
そこには、食卓ではなく――
莉子の部屋の前で、大きなスーツケースを開ける美智子の姿が映っていた。