Chapter 1: 唐揚げのない昼食
「お父さんが帰ってきたら、全部話すんだ」
七歳の僕は、そう心の中で何度も繰り返していた。
でも、その言葉を口に出す勇気はなかった。
父が海外出張へ行ってから三週間。家の中は、同じ家とは思えないほど静かになっていた。
以前なら、夕方になると玄関の鍵が回る音がして、「翔太、ただいま」と大きな声が響いた。
父はいつも僕の頭を撫でて、「今日も頑張ったな」と言ってくれた。
母が亡くなってから、父は僕を一人で育ててくれた。
料理は少し苦手だったけれど、休日には必ず僕の好きな唐揚げを作ってくれた。
形は少しいびつだった。
でも、僕にとっては世界で一番おいしい料理だった。
そんな父が再婚した相手が恵美さんだった。
最初の頃、僕は期待していた。
「新しいお母さんができたら、また家族が増えるんだ」
そう思っていた。
でも、父が家を空けた瞬間、何かが変わった。
朝起きても、「おはよう」と言われなくなった。
学校から帰っても、「おかえり」と言われなくなった。
そして食卓に置かれる料理も変わった。
その日のお昼、僕の前に置かれたのは、小さなカップ麺だった。
一方で、恵美さんとその娘の葵ちゃんの前には、大きな皿が並んでいた。
父がよく作ってくれた唐揚げ。
卵焼き。
僕の大好きだったポテトサラダ。
僕のお腹は正直だった。
でも、僕は何も言わなかった。
七歳の僕にも分かっていた。
「どうして僕だけ違うの?」
そう聞いたら、もっと嫌なことが起きる。
「ラーメン食べなさい、翔太」
恵美さんはテレビを見たまま言った。
僕の方を一度も見なかった。
「……うん」
僕は箸を持った。
湯気の向こうで、唐揚げの匂いがした。
その匂いだけで、お腹が鳴りそうだった。
向かいに座る葵ちゃんは、まだ六歳だった。
彼女はずっと僕の丼ではなく、テーブルの中央に置かれた唐揚げを見ていた。
しばらくして、小さな声が聞こえた。
「お母さん」
「何?」
「なんで翔太くんには唐揚げがないの?」
恵美さんの表情が変わった。
ほんの一瞬だった。
でも僕は見逃さなかった。
優しい顔が消えて、冷たい顔になった。
「その子にはご飯があるでしょ」
「でも、たくさんあるよ」
葵ちゃんは皿を指差した。
「いっぱいあるから、一個くらい――」
「葵」
恵美さんの声が低くなった。
「お昼ご飯を食べなさい」
葵ちゃんは黙った。
僕はうつむいた。
「お腹いっぱいだから」
嘘だった。
本当はお腹が空いていた。
でも、そう言うしかなかった。
その時だった。
葵ちゃんが自分の皿から唐揚げを一つ取った。
小さな手で大事そうにつまんで、椅子から降りた。
そしてテーブルを回って僕のところまで歩いてきた。
「はい、翔太くん」
僕は驚いた。
「え……?」
「食べていいよ」
僕は小さく笑った。
「ありがとう」
その瞬間。
箸がテーブルに叩きつけられる音がした。
バンッ。
「葵!」
葵ちゃんの肩が跳ねた。
「その子に食べ物を分けちゃダメって言ったでしょ」
「でも翔太くん、お腹すいてるよ」
「ラーメンがあるじゃない」
「でも……」
葵ちゃんの目に涙が浮かんだ。
「お父さんはいつも同じものをくれるのに」
その言葉を聞いた瞬間、恵美さんは勢いよく立ち上がった。
椅子が床を擦る音が響いた。
「お父さんは今ここにいないの!」
部屋の空気が凍った。
恵美さんは僕の前の唐揚げを取り上げた。
そして葵ちゃんの皿へ戻した。
「よく聞きなさい」
彼女は僕を指差した。
「この子は、あんたの本当のお兄ちゃんじゃないのよ」
僕の胸が痛くなった。
何度聞いても慣れなかった。
「本当のお兄ちゃんだよ!」
葵ちゃんが叫んだ。
「翔太くんは翔太くんだもん!」
「部屋に行きなさい」
「やだ!」
恵美さんは葵ちゃんの腕を掴んだ。
でも葵ちゃんは必死に振り払った。
そして廊下へ走っていく。
数秒後。
彼女は突然立ち止まった。
そして僕を見た。
「翔太くん」
震える声だった。
「お父さんが出かける前にくれたもの、お母さんに見せて」
その瞬間。
恵美さんの顔から色が消えた。
僕の心臓が大きく鳴った。
父が出発する前の日。
父は僕の部屋に来た。
いつもと違って、笑っていなかった。
「翔太」
「なに?」
父は小さな黒い端末を僕の手に握らせた。
「これは絶対に誰にも見せるな」
「どうして?」
父は少し迷ってから言った。
「もし、お父さんが帰ってくるまでに困ったことがあったら……これを出しなさい」
「誰に?」
父は答えなかった。
ただ僕の目を見て言った。
「約束できるか?」
僕は頷いた。
その約束を、僕は守っていた。
でも今。
僕はポケットに手を入れた。
指先に冷たい金属の感触が触れる。
黒い小さな端末。
赤いランプが点滅している。
それを見た瞬間。
恵美さんの唇が震えた。
「……それを、どこで手に入れたの?」
僕は初めて気づいた。
彼女は怒っているんじゃない。
怯えている。
そして、彼女はその端末を知っていた。
なぜなら――
「それは、お父さんが……」
僕が続きを言う前に、恵美さんが一歩後ろへ下がった。
「翔太」
彼女の声は震えていた。
「それ、絶対に押しちゃダメ」
その言葉で、僕は逆に確信した。
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父は僕に、これを渡した理由があった。
そして赤い光が点滅する端末には、まだ僕の知らない秘密が入っていた。