Chapter 7: 帰ってきた影
玄関の鍵が回る音がした。
カチャ。
その小さな音だけで、家の空気が変わった。
僕は反射的に葵ちゃんの手を握った。
「誰……?」
彼女の声は震えていた。
高橋さんはすぐに地下室の入口へ向かった。
「隠れろ」
「でも――」
「今は質問するな」
いつもの冷静な顔ではなかった。
本当に怖がっていた。
僕と葵ちゃんは棚の後ろへ隠れた。
数秒後。
足音が近づいてくる。
ゆっくり。
確実に。
「翔太?」
聞き覚えのある声だった。
僕の心臓が跳ねた。
「……恵美さん?」
でも、高橋さんは首を横に振った。
「違う」
僕は息を止めた。
「何?」
「声を真似している」
そんなことができるのか。
七歳の僕には理解できなかった。
でも、高橋さんの顔は真剣だった。
「お父さんが恐れていたのは、こういうことだ」
足音が地下室の前で止まる。
そして扉が開いた。
入ってきた人物を見た瞬間。
僕は言葉を失った。
そこにいたのは――
恵美さんだった。
でも、何かがおかしい。
彼女の服は泥で汚れていた。
髪も乱れていた。
そして手には、地下室から消えたはずの箱があった。
「翔太」
彼女は僕を見る。
「出てきて」
僕は動けなかった。
さっきまで、僕は彼女を疑っていた。
でも今。
彼女もまた、何かから逃げているように見えた。
「葵は?」
恵美さんが聞いた。
葵ちゃんが小さく返事をした。
「ここ」
恵美さんは娘を見ると、顔を歪めた。
「葵……」
その瞬間。
外から別の声がした。
「恵美さん」
低い男の声。
僕の背筋が凍る。
「箱を渡してください」
恵美さんの顔から血の気が引いた。
高橋さんが小声で言った。
「彼だ」
「誰?」
「お父さんを追っていた男」
僕は扉の向こうを見る。
そこには、黒いコートを着た男性が立っていた。
年齢は四十代くらい。
優しそうな顔をしていた。
でも、その目は冷たかった。
「翔太くんもいるんですね」
彼は笑った。
「お父さんに似ています」
僕は一歩下がった。
「父さんを知ってるの?」
男は微笑む。
「よく知っています」
「じゃあ、どこにいるの?」
その質問をした瞬間。
男の笑顔が消えた。
「残念ですが、君のお父さんは――」
「嘘」
僕は遮った。
「父さんは生きてる」
男は少し驚いた。
「誰から聞きました?」
僕は答えなかった。
男は小さく笑った。
「なるほど」
そして恵美さんを見る。
「あなたが余計なことをしたんですね」
「違う」
恵美さんが言った。
「私は……もう翔太を傷つけたくない」
僕は驚いた。
初めて聞く言葉だった。
「恵美さん……」
彼女は僕を見る。
「ごめんなさい」
その一言で、胸が痛くなった。
謝るなら、もっと早くしてほしかった。
でも。
その目は嘘をついていなかった。
「私は間違えた」
恵美さんは続けた。
「あなたのお父さんが翔太を守ろうとしていることを知っていた」
「じゃあ、なんで僕にあんなことを?」
彼女は唇を噛んだ。
「怖かったの」
「何が?」
「あなたを失うこと」
意味が分からなかった。
僕を傷つけていた人が、失うことを怖がっていた。
その矛盾に頭が混乱した。
男が一歩近づいた。
「感動的な家族劇は終わりです」
その瞬間。
高橋さんが前に出た。
「お前はここまでだ」
男は笑った。
「高橋さん」
「……」
「あなたも裏切ったんですね」
高橋さんの顔が固まった。
「何の話だ」
男は答えた。
「あなたが翔太くんのお父さんを助けたこと」
僕は驚いた。
「高橋さんが?」
男は続ける。
「彼は知っています」
「何を?」
男は僕を見る。
「君のお父さんが、なぜ君を守ったのか」
高橋さんは黙っていた。
僕は彼を見る。
「教えて」
「翔太……」
「教えてよ!」
初めて僕は叫んだ。
「僕だけ何も知らない」
部屋が静かになった。
高橋さんは目を閉じた。
そして小さく言った。
「君のお父さんは……ある人物から君を守っていた」
「誰?」
高橋さんは男を見る。
「彼だ」
男は笑った。
「違います」
そしてポケットから一枚の写真を取り出した。
「本当に危険なのは、私ではない」
写真を僕へ投げる。
僕は拾った。
そこには――
父。
母。
そして、もう一人。
その人物を見た瞬間。
僕の手が震えた。
写真の裏には文字があった。
『翔太を守る最後の鍵』
そして、その下に書かれた名前。
僕はその名前を見て、息を呑んだ。
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それは――
僕が一度も会ったことのない、母の名前だった。